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隠れ家

別名”サンダードーム”と仲間内から呼ばれる玉利氏の隠れ家であり、車(ハコスカ)のメンテナンスやライブイベントのバンド練習場所でもある。もちろんその場所からは、多くのアイディアを考える大切な空間になっている。

※バンドのメンバー全員が住んでいた湘南大磯にも、まだ現在でも当時アトリエの部屋でもあり、圭伍氏がアコースティック(ギター&バンジョー)の練習や、デモレコーディングを行ったところだそうです。そこではオリジナルの楽曲が生まれた空間でもある。アパレル商品やサンプル品などの保管場所としても使われていますが、今でもレコーディング・ミキシングルームとして残してあるそうです。

狼、戦士、スピリット

KENTA

2010年6月6日、右ヒザ負傷の手術後の復帰戦。KENTA氏から頂いたサイン入り写真より

ハコスカ

いよいよ待望の"GT"リングが発表されました!

ウルフマンB.R.S×VICTORY50のコラボが実現しました!!

詳細は、次回の店長日記にてアップします。

発売元:VICTORY50 (有限会社内田モーターワークス)

http://victory50.com/

記事にも紹介されている通称「ハコスカ」の2台について簡単に説明すると、一台は世界に誇れる名車「スカイライン2000GT-R」(1971年式)で、若い頃にありもしないハコスカの新車に憧れ、その思いが蘇り数年前に手に入れたGT-Rだそうです。その後さらに多数の純正新品パーツ、現代の足回りやブレーキ・その他を取り入れるなどしてセミレストアすることで、ハコスカを知らない若い人には、一見新車のスポーツカーとして見る人もいるようです。もう一台は同じ年式の2000GT(2800cc、3,0L)をチューンナップし”T-KEIGO”仕様にモディファイ。圭伍氏の斬新なアイディアを内外装を含め、随所にウルフマンデザインのシルバーを組み込んだカスタムカーです。圭伍氏が10代で始めて手に入れた車もハコスカ(GT-X)だったので、実に3台もこの車に魅了されていることになる。

※当時のレースで勝つ事を宿命とされたS20のエンジンを積んだ「GT-R」は、50連勝を打ち立てた偉大な記録を持つレーシングカーなのです。走りとは裏腹に端整で洗練されたスタイルから別名「羊の皮を被った狼」の異名を持っていました。ウルフマンブラザーズの名前の由来は幾つかあるのですが、その言葉が”狼”、”ウルフ”、ウルフマン”の名前がひらめいた時のひとつにもなったようです。

つづく

1981

あまり知られていないことですが、1981年という言葉がウエアやアクセサリーの彫刻などでも使われています。これは、“ウルフマン創立”を表している数字になります。

圭伍氏が選んだメンバーは、弟、従兄弟、幼なじみなど4人から始まったのが「ウルフマンブラザーズ」のルーツのひとつでもあります。

ウルフマンエンターテイメントイベント

“ウルフマンブラザーズ”の中には、それぞれのバンドネームを持った幾つものバンドがあり、各ライブ活動を行っていた。

この日のイベントタイトルは「LEGEND OF WOLF」。ウルフマンブラザーズの7バンドと、ウルフマンのオリジナルウエアでのファッションショーや、ダンスチームが出演する螢Ε襯侫泪鷦膾鼎離ぅ戰鵐抜覯茵2饐譴亮りには一般客の他にも仲間のカスタムカーチームやバイカーが続々と集まり、この建物自体を貸切って行いました。

つづく

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出稼ぎ

前途したように圭伍氏の実家はバイク等を扱うモータースであったが、父・母親は若い頃から周りの人からも慕われ、面倒見の良い人でした。(かくゆう私も学生の頃、遊びに行くたびにご飯をご馳走になったり良くしてもらってました。)            そのような人柄から“保証被り”という不幸に見舞われ、市街地にある約400坪の土地と家とモータースなど全てを失うことになりました。父親と圭伍氏もバンドメンバー2人と共に“季節労働者手帳”を手に入れ本州の山間部にある工場へ出稼ぎに行く事になったのです。(半年後、残るバンドのメンバーも後を追うことになる。)

そこでの仕事もそうだが、なにより生活環境の厳しさは特に印象に残っていると聞いています。例えば真冬には会社の寮のサッシや、取り外された空調の穴から隙間風が深々と入り込み、朝起きると被った布団には霜が降るなど、九州育ちの皆には一段とこたえるようでした。それがどのくらい寒いかというと、雪が降った朝の出勤時にはバスも走っていなくて、近道の為に学校の裏を抜ける時には30〜40cm積もった雪の斜面を歩いて通勤することもしばしばあり、(滑り落ちる人もいたそうですよ。)  そんな環境の中でも前向きな性格の圭伍氏は、バンドのメンバーと筋トレやそれぞれが楽器や歌の練習を行い、休みの日には京都や大阪などでもライブを行い、活動域を広げていきました。

湘南の企画ルーム

1986年〜東京へと上京する。バンドで様々なライブハウスの ステージに立ち、プロダクションからスカウトされる頃には、神奈川の湘南が生活基盤となっていた。そこでは、各自がバンドの練習に集中できる環境と仕事を求めての移住計画でもあった。その頃はメンバー全員がバンドの収入だけでなく、近くにあった大磯のリゾートホテルで仕事をして、(圭伍氏はすぐにフレンチのシェフドラン(サービス)に抜擢され、ホテルのオープン屋として磯子、横浜、コンチネンタルなど各地のホテルをまわることもあった。)バンドのギャラとホテル業の収入で、バンドの機材や希少な楽器を新たに買い揃え、またそれらを運ぶ大型ハイエースも手に入れ各地をまわっていた。

ここまでの話だと全て順調に進んでいるように思えるが、ライブの本数が増えていくまでは圭伍氏達は、バブル全盛期の時代なのでホテルの仕事も大忙しでした。その為、なかなか休みも取れず、朝から夜の10時まで勤務し、バンドメンバーの半分が、都内に住んでいたこともあり、目黒の鹿鳴館(ROCKMAYKAN)スタジオまで車で走って、朝の4〜5時まで練習をやっていました。帰りの車の中でボロボロになったみんなは、「俺は死ぬ〜」って叫んでいたそうです(笑)。そして次の日は、また朝から仕事でした。

バンドスタッフに衣裳の縫製・パターンを引く人が居たこともあり、オリジナルのステージ衣裳を手掛け始めることになる。そんなある時、アパレル・生地メーカーの会社経営者の人から圭伍氏が昔から絵を描いていたり、衣装のデザインをしていることを知り、洋服のタグやウエアのデザインを依頼されたのを切っ掛けに、アパレルの世界へとのめり込んでいくことになる。

 その後、湘南の海沿いに企画ルーム兼ショールームを仲間と一緒にオープンさせた。自らのステージ衣裳から始まり、オリジナルウエアやアクセサリーの制作販売、インポートウエア&アクセ、インディアンジュエリーの輸入販売などを開始。この時点では、当時の音楽の方向性もありウエスタン&NEWカントリーや、バイカー&インディアン系の商品群で、ショップ内は埋め尽くされていた。

絵画 ・漫画

11月21日(金)発売の “smart 特別編集シルバーアクセ 最強読本 27” にて、ケイゴ氏幼少時代の1972年作、“CRAZY WOLF” の一部が掲載されます。