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湘南の企画ルーム

1986年〜東京へと上京する。バンドで様々なライブハウスの ステージに立ち、プロダクションからスカウトされる頃には、神奈川の湘南が生活基盤となっていた。そこでは、各自がバンドの練習に集中できる環境と仕事を求めての移住計画でもあった。その頃はメンバー全員がバンドの収入だけでなく、近くにあった大磯のリゾートホテルで仕事をして、(圭伍氏はすぐにフレンチのシェフドラン(サービス)に抜擢され、ホテルのオープン屋として磯子、横浜、コンチネンタルなど各地のホテルをまわることもあった。)バンドのギャラとホテル業の収入で、バンドの機材や希少な楽器を新たに買い揃え、またそれらを運ぶ大型ハイエースも手に入れ各地をまわっていた。

ここまでの話だと全て順調に進んでいるように思えるが、ライブの本数が増えていくまでは圭伍氏達は、バブル全盛期の時代なのでホテルの仕事も大忙しでした。その為、なかなか休みも取れず、朝から夜の10時まで勤務し、バンドメンバーの半分が、都内に住んでいたこともあり、目黒の鹿鳴館(ROCKMAYKAN)スタジオまで車で走って、朝の4〜5時まで練習をやっていました。帰りの車の中でボロボロになったみんなは、「俺は死ぬ〜」って叫んでいたそうです(笑)。そして次の日は、また朝から仕事でした。

バンドスタッフに衣裳の縫製・パターンを引く人が居たこともあり、オリジナルのステージ衣裳を手掛け始めることになる。そんなある時、アパレル・生地メーカーの会社経営者の人から圭伍氏が昔から絵を描いていたり、衣装のデザインをしていることを知り、洋服のタグやウエアのデザインを依頼されたのを切っ掛けに、アパレルの世界へとのめり込んでいくことになる。

 その後、湘南の海沿いに企画ルーム兼ショールームを仲間と一緒にオープンさせた。自らのステージ衣裳から始まり、オリジナルウエアやアクセサリーの制作販売、インポートウエア&アクセ、インディアンジュエリーの輸入販売などを開始。この時点では、当時の音楽の方向性もありウエスタン&NEWカントリーや、バイカー&インディアン系の商品群で、ショップ内は埋め尽くされていた。